「平和の文化」築く広島女性の使命は重し
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小学5年で原爆孤児となった母
広島市南区
 今、緊迫した世界情勢であるだけに、若い頃、お聞きした北西英子さんのお話が思い起こされます。「原爆タブーを強いたプレスコード下の占領期、昭和24年、広島県下から2千人が集い平和婦人大会を開き、敢然と“再び原爆は許さない”との平和宣言を採択した、画期的な広島の女たちの歴史があります。日本の平和運動は、昭和29年のビキニ被災を期に原水爆禁止の署名に立ち上がった杉並の母親たちからとされますが、日本で最初に立ち上がったのは、広島のお母さん方なのです」と。広島のお母さん方の誇るべき歴史、流れを受け継いでいかねばならないなって痛感します。

2000年4月、次男の小学校入学記念に。小学2年の長男、3歳の長女と私たち夫婦。
この年の夏、主人は長男、次男を連れて「8・6平和記念式典」に参加


  1982年4月、広島そごうで開催され反響を呼んだ企画展示「沖縄戦と住民展―うち砕かれしうるま島」。企画、構成等準備に携わり学ぶこと多しの沖縄戦展であった

小学校高学年の頃。両親と妹と。私のこの頃と同じような年頃で、母は自分だけ疎開していて両親を原爆で亡くしたのだなとあらためて
 
中学生の時、作文コンクールで「原爆記念日に思う」が入選し作品集(中)に。高校生の時、聞き取った照子おばあちゃんの体験が、“戦争を知らない世代へT”「私が聞いたヒロシマ」(左)の中に収録された。広島女性平和文化委員会メンバーだった時、“戦争を知らない世代へU”「もうひとつの被爆碑―在日韓国人被爆体験の記録」(右)の編集委員を

小学校高学年の頃。両親と妹と。私のこの頃と同じような年頃で、母は自分だけ疎開していて両親を原爆で亡くしたのだなとあらためて

私が5歳、妹が1歳の頃。乳母車を手に母もこの頃は、死ぬことばかり考えていた頃と違い穏やかな表情に。私の後ろは母の叔母、私にとって育ての照子おばあちゃん。住吉町で
 
中学生の時、作文コンクールで「原爆記念日に思う」が入選し作品集(中)に。高校生の時、聞き取った照子おばあちゃんの体験が、“戦争を知らない世代へT”「私が聞いたヒロシマ」(左)の中に収録された。広島女性平和文化委員会メンバーだった時、“戦争を知らない世代へU”「もうひとつの被爆碑―在日韓国人被爆体験の記録」(右)の編集委員を

1982年10月、広島県総合グラウンドで開催された広島青年平和文化祭で、演目「虹の華」に出演

中学3年生、修学旅行で。左端が私(長崎で)
 
長男の1歳の誕生日を、祝ってくれた両親。うれしそうな母の顔、亡くなる5年前(1993年8月)


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