”ああ、おいしい”妹のあの声が忘れられん 子供たちにヒロシマの心を語り続けたい
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佐伯郡宮島町 宅和 和枝
 女学校1年生、13歳の妹の顔の左半分は皮膚がずるむげで、右半分はカリカリになっとる。もう、真っ黒焦げよねえ。ほいで、もう“水が飲みたい、お水ちょうだい”言うけえ、口移しに、一滴一滴、落としてやったら、“ああ、おいしい”。あの声がねえ、今でも忘れることができん、消すことができんのよ。翌日、妹を家に連れ帰って。でもまともな看病もしてやれんで。手足のウジを取り除いてやるだけ。25日間生き、8月30日に亡くなったんです。生きた人間の生身をウジが食べるなんて。気立てのいい、勉強も好きな妹だったんですよ。

サンタ・バーバラ市での「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」に合わせて渡米。核時代平和財団の事務所に、交流を重ねてきたクリーガー所長を訪ねて(2000年9月、サンタ・バーバラ市)

平成5年、因島会館での第4回広島県離島サミットに宮島を代表して、前列左端2人が私たち夫婦
 
被爆した時に、妹が着ていた服

2日間、3回にわたってサンタ・バーバラ市のシティカレッジで、大学生から小学生たちに亡くなった妹のことを通し、ヒロシマの心を伝えた(2000年9月)

各地で思いを話すと、ミュージカルや紙芝居にして語り継ぐ子どもたちも。写真は大野町・大野東児童館で(2003年8月)

学徒動員で呉・海軍工廠へ、
昭和19年頃
 
前列真ん中が原爆で亡くなった妹、当時5歳、右端が弟7歳、左端が私8歳、後列左が姉11歳、そして母。昭和12年頃、宮島で

昭和33年に結婚

32年入会以来、宮島広布を使命に。第1回宮島支部総会で、支部婦人部長として決意を。夫が支部長、二人三脚で(昭和53年)
 
一人暮らしの老人のホームヘルパーとして5年目、昭和52年頃。通算21年間、続けた

孫たちに平和な世界をと(2000年)


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