自分らしく生きて

 教壇に立つ時、確かな人生の手応えを感じる
張福順 (チャン ボクスン)さん(63)
広島市中区在住
新しい青春がスタート
 張福順さんは当年とって63歳。1994年5月、張さんは、“フレッシュ教師”として公立高校の教壇に立った。科目は商業法規。新しい青春のスタートである。
 転機は10年前。被爆体験を書いて、との依頼があった。しかし、納得のいく文章が書けない。何ともいえないもどかしさが募った。思い悩んだ末、進学を決意。

自分の限界まで挑戦、また挑戦
 52歳で市立中学校の夜間学級に入学。別世界の言葉のように感じた英語や数学を基礎から学んだ。その後、定時制高校を経て、広島大学へ進んだ。特に大学に在学した5年間は、寝食を忘れて学ぶことに没頭した。
 座り続けていると、腰痛が走り、目がかすむ。ドイツ語、統計学――。理解できない悔しさで、柱に頭をぶつけたくなる時もあった。それでも一呼吸置いてチャレンジ。自分の中に秘められた才能を引きずり出すような猛勉強。いつ寝て、いつ起きたのか、分からない日々だった。そして1994年春、国籍、年齢の厚い壁を乗り越えて、晴れて大学を卒業できた。

戦中、戦後の差別と苦しみ
 在日韓国人として戦中、戦後の差別や貧困と戦った張さんの半生は、筆舌に尽くせない。「幼い頃から日本人らしく、と――。それが生きていく知恵じゃった。子どもが“普通に生きる”ためのたった一つの武器じゃったんです」。
 “お嬢さん”――当時、日本人の女の子を、こう呼ばされた。「ヨーイ、ドン!」で走っても、“お嬢さん”より前に出てはいけない。賢くてもいけない。それが大方の日本人の考えだった。韓国人と知れると、すぐに侮蔑の声を浴びせられ、「あんたニンニク臭い」と石を投げられた。逆らえば、得することは一つもなかった。
 そしてまがまがしい被爆後遺症の爪痕(つめあと)――。 昭和20年8月、張さんは、原爆投下から一週間後には当時住んでいた比婆郡から親せきや知人を心配して、広島市内に入った。その後、結婚したが、二次被爆の後遺症に苦しめられ、入退院を繰り返した。「もうダメかも」と医師。「すっきり死んだ方が、旦那さんも喜ぶだろうに――。廊下からもれてきた心ない言葉に、どれほど苦しい思いをしたことか。何度も死のうと思った。3人の子どもを出産する前に必ず一度、流産した。

徐々に健康を取り戻していた昭和39年頃。右隣が中学生だった長女
生きることの素晴らしさ
 韓国人ゆえに、被爆者ゆえにこうむった二重の差別――。塗炭の苦しみにあえぐうちに、何も、だれも信じられなくなった。そんな、打ちひしがれた張さんの心を温かく包んだのは近隣の学会員だった。
 「必ず幸せになれるんよ。一緒に強い人間になりましょうよ」。その言葉が、その真心が何よりもうれしかった。昭和39年、学会に入会。
 何の差別もなく、だれもが優しかった。どんなに苦しくても、生き抜くなかに必ず希望が生まれることを、学会の世界が教えてくれた。
 3人の子供たちを立派に育て上げた現在、張さんは平和、人権、女性問題等のボランティア活動に積極的に参加。週に一度は、韓国の友に手紙を書き、“平和へのメッセージ”として思いを送り続けている。

長女夫妻と孫に囲まれて
若い人たちへ
 人の心の痛みをサッと感じ取れる、そういう優しさが大事じゃー思うよ。平和のために、自分に何が出来るんか本気で考えて、決めんにゃー。その目標に挑戦しながら、苦労して苦労して強い自分を作りあげんといけん。

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