自分らしく生きて

国三さんと百合子さん
畠中国三 (はたなか くにそう)さん(79)
山口県岩国市在住
最年少で最後の大切な証人
 あの時、原爆は、母の胎内で羊水にたゆたっていた小さな生命にまで放射能を浴びせた。
 「体内被爆小頭症児」――1995年、50歳を迎えた畠中百合子さんの知能は2歳3カ月でストップしたまま。一人で食事をすることも、着替えもできない。トイレに行くことも、話をすることもできない。だが、ひたすら生き抜くことで、戦争の怖さを訴え続けてきた。その尊い人生を育み、支え、守り続けた父・国三さんにとって、この50年は長い道のりだった。

結婚当時の畠中さん夫妻(昭和17年2月)
被爆後の出産積もる不安――
 妻の敬恵さんは爆心から730メートルの西大工町で被爆。お腹には3カ月の百合子さんがいた。畠中さんはその直前に招集され、四国の山間で本土防衛のための壕を掘っていた。
 敗戦から1カ月後、広島に帰った畠中さんを待っていたのは、頭髪がばっさり抜け落ちた瀕死の敬恵さんと、「ポンポン痛い」と泣きながら死んだ息子の遺骨だった。
 それでも必死の看病で敬恵さんは回復。翌21年2月14日、百合子さんが生まれた。
 長男を失ったばかりの畠中さん夫妻にとって、百合子さんの誕生は、希望の光になるはずだった。
 でも、何かおかしい。生まれてきた赤ん坊は掌にすっぽりと収まるほど小さく、千五百グラム前後。産湯につかわせても泣き声をあげず、左足は曲がったままだった。
 案の定、1年経ち、2年経っても百合子さんはハイハイもできない。歩き出したのも、言葉が話せるようになったのも、後で生まれた妹に先を越された。
 そのころの畠中家の生活は火の車。広島で開いていた散髪屋を原爆で失い、無一文からの出発。岩国に移って、細々と始めた散髪屋も赤字が続いていた。
 百合子さんの体に不安を募らせつつ、そんな生活の中では、どうすることもできなかった。

昭和29年頃の百合子さん。写真右が母の敬恵さんと、同左が父の国三さんと一緒に。この当時、百合子さんが小頭症児と知らなかった
娘の病は原爆が原因だった
  「小頭児」の問題が、はじめて世間に知らされたのは昭和32年11月、亀井文夫監督の映画「世は恐怖する」が公開された時だ。百合子さんもこの映画の中で紹介されていた。それを見て、畠中さんは初めて、百合子さんの体の異常は原爆によるものと知る。回復は不能。望みの糸がぷつりと切れた。
 今でも忘れられない。
 店に訪れた一人の客に、百合子さんがニコニコ微笑みながら近づいていった時である。 「シッシッ!」――まるで犬でも追い払うかのようなしぐさだった。“百合子だって同じ人間じゃないか!”。胸をかきむしられるような屈辱だった。
 外へ出れば奇異の目、「原爆病」「ぶらぶら病」と揶揄(やゆ)された。世間の仕打ちに、いつしか卑屈な思いがよぎり始める。
 “この子は、いっそ生まれなかった方が――”
 だが、そんな卑屈さを吹き飛ばしてくれたのは他でもない、百合子さんだった。
 ある日、仕事の手を休め、外を眺めていた。百合子さんと同じ年ごろの子供たちがランドセルを背負ってはしゃいでいる。ふと百合子さんに目をやると、何ともうらやましそうな表情で、指をくわえながら見つめている。無心ながらも何かを感じ取っているのだ。
 肩に手をやると、「父ちゃん!」と振り向いて、あどけない笑顔をキラキラ輝かせている。「ワシが馬鹿じゃった」「ワシがずっと守っちゃるけぇ」。声にならなかった。
 そんな昭和34年の春、かつての従業員の紹介で畠中さんは妻と一緒に学会に入会。「どんな子も、生まれたからには、必ず使命がある」――この先輩の一言が一家の原点になった。

米・婦人記者の取材に応じる畠中さん親子(昭和56年8月)

テレビ番組「聞こえるよ母さんの声が」の撮影風景(昭和53年6月)
「きのこ会」を結成し運動開始
昭和39年1月、広島市内で成人式を迎えたばかりの胎内被爆者が自殺するという痛ましい事件が起きた。これを知った畠中さんは翌40年6月、胎内被爆による小頭症児とその家族のための「きのこ会」を組織。初代会長に。

 畠中さんを中心とした「きのこ会」の運動の結果、昭和42年、国は小頭症を「原爆症」と認定した。戦後20年も経ってのことである。
 <実は、すでに昭和27年当時、ABCC(原爆傷害調査委員会)の米人医師が、学会誌で、原爆と小頭症の関係を統計的に証明する論文を発表していた。日本政府は、早くからその事実を知っていながら、目をつぶっていたのである>
 この30年間、畠中さんは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に、しばしば登場して放射能の恐ろしさ、原爆の悲劇を、激しく世に問い続けてきた。アメリカ、フランスをはじめ諸外国のジャーナリスト、学者にも訴えた。百合子さんとともに、ビラを持って街頭に立ったこともある。
 「百合子を人前にさらすのは、親としてしのびないことでした。でも、核を使えばどんなことになるか。この事実を世界中に知らせたかったんです」

百合子さんには亡き母の声が聞こえるのか――。敬恵さんの墓参に(昭和54年8月)
“妻の分まで強く、強く”
昭和17年に結婚して以来、ずっと陰で支えてくれた敬恵さん。散髪屋のきりもり、百合子さんの介護――。どんなに苦しくても弱音などもらしたことはなかった。
 畠中さんが辛い顔をしていると。「私らには信心があるんじゃけえ」「お父さん、頑張らんとね」――そう言っていつも励ましてくれた。
 こんなこともあった。百合子さんの妹・真由美さん(40)に結婚話がもち上がった時である。日ごろ静かだった敬恵さんだが、この時ばかりは畠中家の固い信念を告げた。
 「百合子がいることを包み隠さずはっきり言いなさい。それでいやな顔をするような相手だったら結婚することはないよ!」
 優しい妻であり、強い母であった。
 そんな敬恵さんの存在の大きさを、失ってから初めて気付く男身一人の寂しさ――。あの温かい声の響きが、いつまでも忘れられない。思い出すと眠れなくなる。寝酒も少し、たしなむようになった。 こんな切なさを胸の内にしまい込み、畠中さんは語ってくれた。
 「女房の分まで、百合子と一緒に強く生きんとね」
 そして最後に――
 「ワシが生まれたから百合子がいるんじゃない。百合子を守るためにワシが生まれたんですな」
 「何でかって? だって百合子は、だれにもできん仕事をさずかった“平和の天使”じゃからの」

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