自分らしく生きて

あれから50年。苦難を乗り越えて強く、限りなく強く――(左から3女の距子さん、悦子さん、4女の睦子さん)
金光悦子 (かねみつ えつこ)さん(64)
安芸郡府中町在住

ラダクリシュナン博士と懇談(1993年8月、広島池田平和記念会館で)
“ヒロシマの心”“ガンジーの心”
 インドのガンジー主義者の多くは毎年、広島に原爆が投下された日に平和行進を行っている。ガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士もその一人。
 1993年夏、博士は広島を訪れ、金光悦子さん(64)に、率直な質問を投げ掛けた。
 「原爆を投下したアメリカをどう思いますか?」
 金光さんは誠実に、そして熱情を込めて答えた。
 「憎んだ時期もありました。でも恨むことに心を費やすことがどれほど惨めか。人生、何に生命をかけるかが大切です。私は、すべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」
 悲劇の地で強く生き抜いてきた一婦人の心の発露。その言葉は、“ガンジー直系の弟子”の心を大きく揺さぶった。 「ワンダフル(すばらしい)!」
 “ヒロシマの心”、そして“ガンジーの心”。人類愛に満ちた二つの心が結ばれた出会い――。
 懇談の後、博士は一人の青年にこう語り掛けた。
 「あのご婦人の心の中に、不滅の力がある。あのご婦人の心の行く手に、世界の希望がある」

動員学徒の会の活動として、街頭募金運動に立つ(昭和31年当時)
偏見、差別に苦しんだ青春時代
 昭和32年、広島に「動員学徒等犠牲者の会」が発足。金光さんは同会の発足に尽力。以来、38年間、約2千人で構成される同会の中心者の一人(現在は理事)として、戦争による犠牲者の遺族、障害者を支え、国に年金制度を施行させた実績もある。
 両親と1男4女の7人家族の次女として育った金光さん。 「私は中区南竹屋町の進徳女学校の校庭で被爆しました。爆心から1.5Kmのところで、生き残ったクラスメイトはわずか四人。登校途中で別れた姉は勤務先で爆死。私自身、上半身に大火傷(やけど)を負いました」  その時、14歳。普通なら、ニキビ一つにも心がゆれる多感な年頃。着る物、食べる物、恋人のこと…そんなささやかな幸せに心躍らせてもおかしくはない。だが、金光さんの青春に華やかな季節はなかった。ヤケドの跡が痛ましく残った身体。外を歩くと“ケロイド娘”“赤鬼”とはやし立てられた。ある日、銭湯に行くと、呼び止められた。  「あんたが来ると、他の客が気味悪がるから来ないでくれ」  風呂桶(おけ)を抱え、泣きじゃくりながら走って帰った。  「なんであの時、死なせてくれなかったの!」。やり場のない悔しさを、母にぶつけては悲しませた。  だが母はいつも、そんな我が子の手を握りながら、優しく諭(さと)してくれた。  「だれが何と言おうと、お前が一番素敵だよ。お母さんだけは、ずっとそう思っとるんよ」  不思議だった。母の一言は、傷ついた心を温かく包み、癒してくれる。母の声を聞くだけで、生き抜く勇気が湧いてきた。  金光さんは、一歩、一歩、自分の人生を開き始めていった。  和裁を習い、教師の免状を取得。数年後には呉服屋の仕立てに汗するように。  そして被爆した友人とともに“学徒の会”の運動を開始。街頭募金、署名運動、国会への請願…。戦争で苦しめられた人を一人でも多く助けたい――そんな思いを秘めて全国を駆け回った。

昭和20年3月、級友、妹たちと一緒に(前列右から、3女の距子さん、4女の睦子さん、左端が悦子さん)
娘の身体にも原爆の爪痕が
  昭和34年、同じ被爆者の秋次さん(66)と結婚。同36年、娘の安達正恵さん(35)=岡山市=が誕生。しかし出産直後から被爆後遺症に苦しむ日々が。そして娘の体もまた、原爆にむしばまれていた。

 娘の体の異常に気が付いたのは、3歳になったころ。つまずいてはすぐ転び、他の子がはしゃぎ回っているのに、我が子だけは怖がって離れない。
 不安を抱きつつ医師の診断を仰いだ。
 生まれながらの虚弱体質。それに加えて弱視、遠視、斜視という強度の視力障害。失明に近い状態だった。このままだと完全に光が閉ざされるという。
 “この子に罪はないじゃない”“原爆は、どこまで私たちを苦しめるの”。悔しさに歯がみした。自分の運命が恨めしくさえ思えた。そんな時、地域の婦人の紹介で学会に入会した。
 めまい、貧血に、何度もうづくまりながら必死に続けた新聞配達。辛くても、苦しくても、“娘だけは救いたい”――一途に祈り続けた金光さん。
 家に帰ると、娘はいつも玄関先で待っていてくれた。見えない目からこぼれる大粒の涙。唇をかみ締めて、じっと寂しさをこらえる我が子の顔がいじらしくてたまらない。「大丈夫よ」。抱き締めずにはおれなかった。
 一年後、担当医が、首をかしげながら尋ねた。
 「この病院の他に、どこかで治療しているでしょ?」
 それも無理はない。長女の目が回復していたからだ。

被爆死した姉の昌子さんが生前、出征中の婚約者に書き送った短歌

婚約者の無事を祈り、短歌を残して亡くなった姉の昌子さん(右)は被爆した当時、22歳の若さだった
大好きだった姉の姿を胸に
「被爆体験を語り継ぐ会」の一員でもある金光さん。多い時は月に10回以上も、全国から広島に訪れる修学旅行生に“語り部”となって被爆体験を伝えている。

 「これは、私を支えてくれる生涯の宝なんです」。金光さんが、そっと取り出したのは、台紙に張られた薄い便せん。そこには、被爆死した姉の昌子さん(当時22歳)が生前、出征中の婚約者に送った短歌がしたためられている。
 「みいくさに召されて行きし我が君を 守らせ給へとたゞ祈るらむ」
 昭和20年の秋に結婚する予定だった姉の昌子さんは、婚約者の帰りをひたすら祈り、待ちわびていたという。
 この便せんは、彼女の死後20年ぶりに、その婚約者が届けてくれたものだった。
 あの朝、金光さんは姉と一緒に家を出た。別れ際、「気をつけて行くんよ」と手を振ってくれたのが最後だった。 手を引いて「赤とんぼ」を歌ってくれた優しい姉。家族全員の散髪をしてくれた器用な姉。教員試験に合格し、皆を喜ばせてくれた賢い姉――。 この歌を見ると、大好きだった姉の姿がよみがえり、胸が締めつけられる。
 でも、姉が残した、たった一つの遺品。“語り部”を務める時、金光さんは、辛い気持ちを押し殺して、子どもたちにこの歌を紹介している。 「恋人同士が、会うことも、話をすることもままならなかった戦時中、どれだけの若者の幸福が奪われたことか」
 「この平和を大切にしなければいけせん。多くの人の悲しみ、そして犠牲の上に、やっとつくられた世界なのだから――」

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