自分らしく生きて

美容院を営む長女の家族と一緒に
梅迫解詞 (うめさこ さとし)さん(73)
東京都多摩市在住

原爆の子の像
 平和記念公園の「原爆の子の像」は41年前、原爆症のために12歳で亡くなった佐々木禎子(さだこ)さんの死を悼(いた)んで建てられたもの。
 1993年、その逸話を知ったアメリカ・ニューメキシコ州の子供たちが「一ドル募金運動」を行った。“米国版「原爆の子の像」を建てたい”との思いからである。
 同年10月、その運動を励ますため、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の梅迫解詞常任理事は、同州のいくつかの都市を訪れた。そして、原爆を生んだ都市・ロスアラモス市にも訪れ、市長と懇談した。
“平和の大使”として海外に
 ニューメキシコ州、ロスアラモス市役所の一室で――。
市長 「日本は、真珠湾を不意に襲撃した。卑劣なやり方だ」
梅迫さん 「その点は、謝罪します」
市長 「それに、原爆によって戦争も最小の被害で終わった」
梅迫さん 「その考え方は絶対に間違い! 原爆によって殺された数十万人の人たちは皆、罪のない庶民なんです」
 二時間、三時間――火花を散らすような激論が続いた。
梅迫さん 「日本人の生命。アメリカ人の生命。皆、同じ重さです」
市長 「あなたの言い分は分かった。壊された建物や財産は修復できても、人の生命は修復できませんからね」
 その後、同市長は、同州での「原爆の子の像」の建設地を探索してくれるまでに協力的になった。

被爆直後の原爆ドームを真下から
(梅迫さん撮影)

被爆地以外での被爆者への差別
 梅迫さんは、郷里の広島市・観音町で被爆(爆心地から1・2−。)。数年間、後遺症に苦しんだ。昭和36年、広島で妻の孝枝さん(74)に続いて学会に入会。埼玉の浦和市、そして東京の多摩市へ移住。昭和55年まで大手印刷会社で働いた。
 戦後、被爆のことについては口をつぐんでいた。しかし、定年退職を前にして、転機があった。多摩市の被爆者から、医療の相談を受けた時である。「病院に行っても丁寧に検査してくれない」「体の調子が悪いと訴えているのに、精神障害だと片づけられる」と。調べてみると、多摩市には原爆症の検査を受ける指定病院が一つもないことが分かった。
 また、広島・長崎市などの被爆地ではあまり生じない、被爆者への「差別」の実態を知った。
 婚約を解消されたり、“伝染病”と吹聴され退職を余儀なくされた人。また、“居住の立ちのき”を迫られた人など極端な差別もあった。
 原爆症にかかりながらも、何の救援の手も差し延べられないまま、病床に呻吟(しんぎん)している犠牲者もかなりの数だ。
 「運の悪い人だ」――まるで“その人自身の罪”かのように、世間から冷たく切り離されて――。

昭和28年当時の梅迫さん(元安川で)
生き残った自分の使命を自覚
  現在でも東京では、家族を失い、一人で後遺症の「不安」におびえ、自殺する高齢者が後を絶たない。原爆の爪痕(つめあと)は、50年を過ぎた今なお、被爆者を苦しめ続けている。
 それに対し、日本政府の措置はどうであったか。
 戦後7年目にして、軍人や軍属家族には援護法をつくっておきながら、被爆者医療法は戦後12年目、被爆者特別措置法に関しては戦後23年もたってから制定された。
 なぜ、後手、後手にまわるのか。なぜ、現に苦しんでいる被害者には何の手当もしなかったのか。
 “こうした「あいまいさ」を放置して、真の平和はない。苦しむのはいつも庶民じゃないか”。
 梅迫さんは、この国の不条理極まりない体質を考えると、痛憤すら覚えた。そして、自身に反問した。
 被爆して、生き残った自分の使命は何なのか。“犠牲になった人の死を、無意味にしてはいけない”“生きている限り、「核全廃」への運動を”。60歳を前に、生涯を貫く道を決めた梅迫さんであった。

昭和30年当時の梅迫さん(平和記念公園で)
まるで別人のように行動を
広島・長崎市に次いで、最大の被爆者居住地は東京である。東京の被爆者の組織は「東友会」に一本化されており、ここに所属する被爆者手帳所持者は約1万人。梅迫さんは同会の運営を中心的に進め、「被爆者援護法」の制定に奔走してきた。
 「まるで人が変わったみたいでした。口を開けば被爆した方の話ばかり。福祉法、援護法や医療法に関する文献をむさぼるように勉強していました」(妻の孝枝さん)
 厚生省や国会議員、市長や区長のもとへ出向き、体当たりで交渉。無認識、傲慢(ごうまん)な対応をされた時もあったが、一歩も退かなかった。
 しかし、何よりも心を砕いたのは、地域の被爆者を励ますこと。当初、大半の人が「もう思い出したくない」「私たちの力ではどうにもならない」と拒絶した。被爆者であることの重みを心にしまい込み、差別に対して極端に敏感だった。
 「まず一対一で会うことが“戦い”の第一歩」と梅迫さん。来る日も来る日も、対話に歩いた。そして、一人一人の悩みや意見に耳を傾けながら、「連帯して行動する」ことの大切さを説いていった。
十数年にして大きな波動が
「梅迫さんは、会の中心軸として頑張ってくれています。人柄もよく、情熱的。考え方もしっかりされており、被爆者の心が分かる人として、皆さんから大きな信頼が寄せられています」<「東友会」の伊藤壮会長>

 これまでに、多摩市で150人の被爆者と心を結び、皆、同会の会員に。そして、約50にのぼる同市内の病院を訪ねて、医師を説得。すべての病院が、被爆者手帳所持者の指定病院になった。
 「平和」を口にする人は多い。しかし、行動を起こす時、必ずしがらみや壁が立ちはだかる。その時、知りたげな理屈を並べ、“大勢順応主義”の生き方を選ぶ人はいくらでもいる。それに比べて、梅迫さんの人生に触れると、勇気がわく。 「学会の世界で、人に尽くすことの尊さを学びました」。
 どこまでも前へ――年輪を刻むごとに「ノーモア・ヒロシマ」の心を強く燃え上がらせる梅迫さんである。

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