広島創価学会の公式サイトです

友田典弘(ともだ つねひろ)さん


日本人青年を救った一婦人
 1955年(昭和30年)、韓国のソウル市——。朝鮮戦争が終わってまだ1年余り。多くの市民が飢えと貧困に耐えていた。その中に、子ども4人を抱えて懸命に暮らす一婦人の姿があった。
 ある日、娘が「市場で知り会ったの」と、一人の日本人青年を連れて帰ってきた。広島から来て、身寄りがなく放浪しているという。「一緒に暮らしましょう」。婦人は温かく青年を包み込んだ。だが日本に植民地支配(1910〜1945年)され暴政を振るわれた地域でのこと。周囲からいっせいに罵声(ばせい)を浴びせられた。
 「裏切り者!」「出ていけ!」。
 それでも婦人は毅然(きぜん)として「この子に罪はない」と守り続けた。日本軍に自分の夫の命を奪われ、自らも横暴な仕打ちを受けたにもかかわらず——。青年は日本に帰還してからも、この婦人の恩を片時も忘れなかった。
 青年の名は友田典弘さん。婦人は梁鳳女(ヤン・ポンニョ)さんという一人の韓国人女性である。

被爆後、一人、流転の人生を
 友田さんは9歳の時に被爆。爆心から約500mの袋町小学校の地下室にいた。校庭にいた弟は焼死。母も行方不明。父は既に病死していた。孤児となった友田さんは、自宅に間借りしていた韓国人の男性とともに昭和20年9月、渡韓した。
 金炯進(キム・ヒョンジニ)——それが友田さんの新しい名前になった。一緒にいた韓国人の男性は2年後に結婚。その奥さんにつらくあたられた。13歳の冬、友田さんは毛布一枚をもって家を飛び出した。
 国会議事堂や高層ビルがそびえるソウルの汝矣島(ヨイド)には米軍の飛行場がある。そこで昼は米兵の靴を磨き、夜は橋の下で“かます”にくるまった。食堂を手伝い、おこぼれで腹を満たす日々——。 そんな暮らしの中でも心許せる仲間ができた。戦争で家族を失った韓国の孤児たちだ。
 国籍は違っても同じ境遇の子どもたち。一緒にいると楽しかったし、寂しさを忘れることができた。
 だが、そんないたいけな共同生活も、あっけなく砕け散った。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)である。

朝鮮戦争の壮絶な市街戦に遭遇
  1950年(昭和25年)6月から3年続いた朝鮮戦争。北朝鮮軍は中国人民義勇軍の支援も受け、二度にわたってソウルを占領。壮絶な市街戦が展開され、死者は市民だけで100人を超える大惨劇となった。

 銃弾の雨をくぐり抜け、逃げまどった3年で仲間たちは皆、ちりぢりに。“やっぱり独りぼっちなんだ”。切なさが込み上げてきた。
 夜になると、ソウルを流れる漢江(ハンガン)の土手に座った。またたく星を数えていると、母の顔が浮かんでは消えていく。そして、故郷の思い出も——。優しい母だった。仕事の合間を縫っては、手を引いて、元安川でボートに乗せてくれた。夏は弟と産業奨励館(現在の原爆ドーム)を見上げて泳いだ。
 「母ちゃんは絶対に広島で生きている」——そう信じ、それだけを支えに生きようと思った。“諦めるもんか”。新聞配達、パン屋の見習い。必死に働きながら、韓国外務部に何度も足を運んだ。だが日本人である証明は何もない。帰国の願い出は、なしのつぶてにされた。
 ヤン・ポンニョさんと出会ったのは、半ば失望しかけていたそんな時である。ヤンさんは、友田さんの望郷の思いを知ると、日本語で筆をとった。植民地時代に強要された屈辱(くつじょく)の言葉である。もう二度と使いたくなかった。“でも、この子の望みをかなえてやりたい”。ヤンさんは30通以上の手紙を広島市長や関係者に送った。
 一人の青年を思う“母”の一念。その真心の訴えが、国交のなかった日韓両政府の扉をこじ開けた。

妻の励ましで後遺症を克服
ヤンさんの手紙は当時の浜井広島市長に届き、“望郷の訴え”として一般紙に紹介された。そして母方の祖母が見つかり保証人に。昭和35年、友田さんは念願かなって帰国。しかし母は原爆で亡くなっていた。翌年、大阪へ。同37年に友人の紹介で学会に入会。同41年に佳世子さん(56)と結婚した。

 あれほど思い焦がれていた日本での生活もまた、つらい日々の連続だった。日本語を忘れていたことでやじられ、業を煮やしてはケンカばかり。 そして、結婚したころから突然、現れ始めた被爆後遺症。歯ぐきから出血が続いた。朝起きると枕が真っ赤に染まって、起き上がれない。
 何度も職を失い、気落ちする友田さんを、妻の佳世子さんはずっと支えてきた。
 「あんた、うちと結婚する時、『何でも信心で乗り越える』言うたやんか!」「立派になって韓国のお母さんに会いに行くんやろ! 死んだらあかんやない」。
 強く励ましてくれる佳世子さん。でも、心は不安で押しつぶされそうだった。夜中になるといつも声を詰まらせ、すすり泣いていた。そんな妻の背を見て、“女房だけは悲しませたくない”と奮い立つ友田さんだった。
 その後、10年間かけて後遺症を克服。ステンレス加工工場などで身を粉にして働きながら、4男1女の子どもたちを立派に育て上げた。

これまで友田さんは韓国を5度、訪問。1994年3月に渡韓した際、ソウル文化放送の協力で現地のテレビ番組「メイキング・ザ・モーニング」に出演。「命の恩人を探しています」と訴えた。
 番組の終了直後、一本の電話がかかってきた。懐かしい声だった。ヤンさんの長女・金載淑(キム・チェスキ)さんだ。すぐにテレビ局に駆け付けてくれた。35年ぶりの再会、肩を抱き合って喜んだ。だが、ヤンさんは18年前、病気で亡くなっていた。
 「母が、あなたにどんなに会いたがっていたか」「息を引き取る直前まで、連絡を待っていましたよ」
 ずっと思いを寄せていてくれた韓国の“母”、ヤンさん。“それなのに自分は何も孝行できなかった”。悔いても悔やみきれない。その気持ちを悟ってか、キムさんが優しく語りかけてくれた。「私たちが家族として仲良くし続けることが、母の一番の喜びよ」。
 その言葉を聞き、友田さんは固く心に誓った。
 “永遠に、「韓国の母」のことを語り抜こう”“永遠に、日本と韓国に、家族をつくり続けよう”と。

張福順(チャン ボクスン)さん

自分の限界まで挑戦、また挑戦
 52歳で市立中学校の夜間学級に入学。別世界の言葉のように感じた英語や数学を基礎から学んだ。その後、定時制高校を経て、広島大学へ進んだ。特に大学に在学した5年間は、寝食を忘れて学ぶことに没頭した。
 座り続けていると、腰痛が走り、目がかすむ。ドイツ語、統計学——。理解できない悔しさで、柱に頭をぶつけたくなる時もあった。それでも一呼吸置いてチャレンジ。自分の中に秘められた才能を引きずり出すような猛勉強。いつ寝て、いつ起きたのか、分からない日々だった。そして1994年春、国籍、年齢の厚い壁を乗り越えて、晴れて大学を卒業できた。

戦中、戦後の差別と苦しみ
 在日韓国人として戦中、戦後の差別や貧困と戦った張さんの半生は、筆舌に尽くせない。「幼い頃から日本人らしく、と——。それが生きていく知恵じゃった。子どもが“普通に生きる”ためのたった一つの武器じゃったんです」。
 “お嬢さん”——当時、日本人の女の子を、こう呼ばされた。「ヨーイ、ドン!」で走っても、“お嬢さん”より前に出てはいけない。賢くてもいけない。それが大方の日本人の考えだった。韓国人と知れると、すぐに侮蔑の声を浴びせられ、「あんたニンニク臭い」と石を投げられた。逆らえば、得することは一つもなかった。
 そしてまがまがしい被爆後遺症の爪痕(つめあと)——。 昭和20年8月、張さんは、原爆投下から一週間後には当時住んでいた比婆郡から親せきや知人を心配して、広島市内に入った。その後、結婚したが、二次被爆の後遺症に苦しめられ、入退院を繰り返した。「もうダメかも」と医師。「すっきり死んだ方が、旦那さんも喜ぶだろうに——。廊下からもれてきた心ない言葉に、どれほど苦しい思いをしたことか。何度も死のうと思った。3人の子どもを出産する前に必ず一度、流産した。

生きることの素晴らしさ
 韓国人ゆえに、被爆者ゆえにこうむった二重の差別——。塗炭の苦しみにあえぐうちに、何も、だれも信じられなくなった。そんな、打ちひしがれた張さんの心を温かく包んだのは近隣の学会員だった。
 「必ず幸せになれるんよ。一緒に強い人間になりましょうよ」。その言葉が、その真心が何よりもうれしかった。昭和39年、学会に入会。
 何の差別もなく、だれもが優しかった。どんなに苦しくても、生き抜くなかに必ず希望が生まれることを、学会の世界が教えてくれた。
 3人の子供たちを立派に育て上げた現在、張さんは平和、人権、女性問題等のボランティア活動に積極的に参加。週に一度は、韓国の友に手紙を書き、“平和へのメッセージ”として思いを送り続けている。

若い人たちへ
 人の心の痛みをサッと感じ取れる、そういう優しさが大事じゃー思うよ。平和のために、自分に何が出来るんか本気で考えて、決めんにゃー。その目標に挑戦しながら、苦労して苦労して強い自分を作りあげんといけん。

畠中国三(はたなか くにそう)さん

最年少で最後の大切な証人
 あの時、原爆は、母の胎内で羊水にたゆたっていた小さな生命にまで放射能を浴びせた。
 「体内被爆小頭症児」——1995年、50歳を迎えた畠中百合子さんの知能は2歳3カ月でストップしたまま。一人で食事をすることも、着替えもできない。トイレに行くことも、話をすることもできない。だが、ひたすら生き抜くことで、戦争の怖さを訴え続けてきた。その尊い人生を育み、支え、守り続けた父・国三さんにとって、この50年は長い道のりだった。

被爆後の出産積もる不安——
 妻の敬恵さんは爆心から730メートルの西大工町で被爆。お腹には3カ月の百合子さんがいた。畠中さんはその直前に招集され、四国の山間で本土防衛のための壕を掘っていた。

 敗戦から1カ月後、広島に帰った畠中さんを待っていたのは、頭髪がばっさり抜け落ちた瀕死の敬恵さんと、「ポンポン痛い」と泣きながら死んだ息子の遺骨だった。
 それでも必死の看病で敬恵さんは回復。翌21年2月14日、百合子さんが生まれた。
 長男を失ったばかりの畠中さん夫妻にとって、百合子さんの誕生は、希望の光になるはずだった。
 でも、何かおかしい。生まれてきた赤ん坊は掌にすっぽりと収まるほど小さく、千五百グラム前後。産湯につかわせても泣き声をあげず、左足は曲がったままだった。
 案の定、1年経ち、2年経っても百合子さんはハイハイもできない。歩き出したのも、言葉が話せるようになったのも、後で生まれた妹に先を越された。
 そのころの畠中家の生活は火の車。広島で開いていた散髪屋を原爆で失い、無一文からの出発。岩国に移って、細々と始めた散髪屋も赤字が続いていた。
 百合子さんの体に不安を募らせつつ、そんな生活の中では、どうすることもできなかった。

娘の病は原爆が原因だった
  「小頭児」の問題が、はじめて世間に知らされたのは昭和32年11月、亀井文夫監督の映画「世は恐怖する」が公開された時だ。百合子さんもこの映画の中で紹介されていた。それを見て、畠中さんは初めて、百合子さんの体の異常は原爆によるものと知る。回復は不能。望みの糸がぷつりと切れた。

 今でも忘れられない。
 店に訪れた一人の客に、百合子さんがニコニコ微笑みながら近づいていった時である。 「シッシッ!」——まるで犬でも追い払うかのようなしぐさだった。“百合子だって同じ人間じゃないか!”。胸をかきむしられるような屈辱だった。
 外へ出れば奇異の目、「原爆病」「ぶらぶら病」と揶揄(やゆ)された。世間の仕打ちに、いつしか卑屈な思いがよぎり始める。
 “この子は、いっそ生まれなかった方が——”
 だが、そんな卑屈さを吹き飛ばしてくれたのは他でもない、百合子さんだった。
 ある日、仕事の手を休め、外を眺めていた。百合子さんと同じ年ごろの子供たちがランドセルを背負ってはしゃいでいる。ふと百合子さんに目をやると、何ともうらやましそうな表情で、指をくわえながら見つめている。無心ながらも何かを感じ取っているのだ。
 肩に手をやると、「父ちゃん!」と振り向いて、あどけない笑顔をキラキラ輝かせている。「ワシが馬鹿じゃった」「ワシがずっと守っちゃるけぇ」。声にならなかった。
 そんな昭和34年の春、かつての従業員の紹介で畠中さんは妻と一緒に学会に入会。「どんな子も、生まれたからには、必ず使命がある」——この先輩の一言が一家の原点になった。

「きのこ会」を結成し運動開始
昭和39年1月、広島市内で成人式を迎えたばかりの胎内被爆者が自殺するという痛ましい事件が起きた。これを知った畠中さんは翌40年6月、胎内被爆による小頭症児とその家族のための「きのこ会」を組織。初代会長に。

 畠中さんを中心とした「きのこ会」の運動の結果、昭和42年、国は小頭症を「原爆症」と認定した。戦後20年も経ってのことである。
 <実は、すでに昭和27年当時、ABCC(原爆傷害調査委員会)の米人医師が、学会誌で、原爆と小頭症の関係を統計的に証明する論文を発表していた。日本政府は、早くからその事実を知っていながら、目をつぶっていたのである>  この30年間、畠中さんは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に、しばしば登場して放射能の恐ろしさ、原爆の悲劇を、激しく世に問い続けてきた。アメリカ、フランスをはじめ諸外国のジャーナリスト、学者にも訴えた。百合子さんとともに、ビラを持って街頭に立ったこともある。
 「百合子を人前にさらすのは、親としてしのびないことでした。でも、核を使えばどんなことになるか。この事実を世界中に知らせたかったんです」

“妻の分まで強く、強く”
昭和17年に結婚して以来、ずっと陰で支えてくれた敬恵さん。散髪屋のきりもり、百合子さんの介護——。どんなに苦しくても弱音などもらしたことはなかった。
 畠中さんが辛い顔をしていると。「私らには信心があるんじゃけえ」「お父さん、頑張らんとね」——そう言っていつも励ましてくれた。
 こんなこともあった。百合子さんの妹・真由美さん(40)に結婚話がもち上がった時である。日ごろ静かだった敬恵さんだが、この時ばかりは畠中家の固い信念を告げた。
 「百合子がいることを包み隠さずはっきり言いなさい。それでいやな顔をするような相手だったら結婚することはないよ!」
 優しい妻であり、強い母であった。
 そんな敬恵さんの存在の大きさを、失ってから初めて気付く男身一人の寂しさ——。あの温かい声の響きが、いつまでも忘れられない。思い出すと眠れなくなる。寝酒も少し、たしなむようになった。 こんな切なさを胸の内にしまい込み、畠中さんは語ってくれた。
 「女房の分まで、百合子と一緒に強く生きんとね」
 そして最後に——
 「ワシが生まれたから百合子がいるんじゃない。百合子を守るためにワシが生まれたんですな」
 「何でかって? だって百合子は、だれにもできん仕事をさずかった“平和の天使”じゃからの」